満月の咆哮





のぶひろ

Author:のぶひろ



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知性と品性、怠惰と浪費の共有。 

 ちょっくら海で日焼けしたら、日焼けというか火傷した。
メラニン色素無さ過ぎ。一生、日焼けとは縁が無い。黒くなるというより、赤くしかならない。

 生まれてくる国を間違えた。ある意味、北国向きではある。
どうせならプラハに生まれたかった。プラハの女性は全員美人、という勝手なイメージを持っている。現実を知らない事は、人生に潤いを与える。脳内パラダイス。

 将来、大人になったらブラットピットかデイビッドベッカムになりたいな、と20歳くらいから思っていたが、21歳の時には無理だと思っていて、25歳くらいでひょっとしたらなれるかもしれないと思い直し、27歳になっても髭が濃くならなかったので諦めた。ゲイリーオールドマンは夢のまた夢だ。

 若いうちは、何においても無駄に浪費すること、無茶をすることが楽しいと感じ、年齢を重ねて後に、それは間違いであった、限られた時間は大事にすべきだと気づくのが、まっとうな流れではあるが、楽しいと感じること、充実を感じることの大半は無駄から生まれると思う。それはつまり、精神が老けていくと、数値化しないと楽しさが測れなくなるという、感性の堕落がなせる業なのではないか、と感じる俺はまだ若い、というよりどうやら餓鬼らしい。

 大人になるなどというファジイな言い方よりも、感性が衰えていくという言い方のほうが、世のつまらない人間を見るときには正しいと感じる。諦めは人生をうまく過ごす上で非常に大切な要素だが、頻度を間違えるとつまらない人生となる。理性を持って生きることは言うまでも無く、己の美徳を守り、ひいては自己というイメージを守るためには重要な考えだが、守りすぎると貧乏くじを引く羽目になる。エゴを通しすぎても駄目だし、己を殺しすぎても楽しみが無い。欲を出しすぎないことは品性を守る上で必要で、ストイックすぎると坊主になる。毎日、ソクラテスのことを考えていてはつまらない。たまにはアメリカンコメディのくだらなさがあってこその楽しさであり、それが若さだ。

 コーヒーを啜りながら、ドリフ大爆笑をみて、ビールを浴びながら、ドストエフスキーに思いを馳せる。この違和感こそが、現代人の感覚じゃないか、と。

 ただし、俺が出会う人間にはあまりこういった感覚を共有できる人は少ない。

 他人からみて、普通の人と評される人間にはなりたくない。お前からみて普通だったら、俺は自分が大嫌いになると言ってやる。好きではない人間からの「変わってる」は最高の褒め言葉だ。
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[2007/07/05 03:28] 日記 | TB(0) | CM(5)

世は全て事もなし。 

 神の見えざる手に尻を叩かれたので、なんか書いてみる。

 更新をしなくなってから、一月ほどして後、ブックマークしているブログを巡回してみたら、ほぼ同時期に更新がストップしている事例が数件あった。何これ、因果の収束?シンパシーを感じる書き手なればこそ、「もういいか」と感じるタイミングも近かったのか。

 サッカーを数試合見て、ギター弾いて、本読んで、眠くなったら寝たいだけ寝る。この退廃したローテーションに最近ダーツが加わった。ちっこい矢をちっこい的に投げるゲームのダーツだ。これが中々面白い。己の体との会話、相手との駆け引き、心理の脆弱性の発見等、楽しむところは多々ある。ただ、経験則から言うと、そろそろ伸び悩んできて、飽きる頃だと思うんだ。俺って奴は。まだ大してやってないのに。既に新鮮さは失われており、未だ発見の連続ではあるにせよ、食傷になるには十分に通った。一度嵌まると飽きるまでやって、後に疎遠になる傾向にある俺は、現時点で既にダーツから離れていてもおかしくは無いが、まだそこにいたっていないのは何故か。それは一重に中毒性によるものだと思う。なんだか、あのダーツって奴はちょっと投げに行ったつもりなのに、延々と投げ続けてしまう何かがある。家で他の事をしていても、フォームをこういじってみてはどうか、等と考えている。本を読みながら右手はフォロースルーのチェックに余念が無かったり。俺の脳髄に巣食った何かの為に、ダーツのことを考えずにはいられない人間になってしまった。他の人は知らないが、俺はそうだ。もし歩いていけるところにダーツバーが出来たら、きっと俺は大変な常連になることだろう。無くて幸い。

 久しぶりに書いてみて、ああ、俺は、相変わらず言いたい事は何も無いのだと実感した。
[2007/04/29 09:52] 日記 | TB(0) | CM(0)

笑う事に集中出来る程の笑いを。 

 獅子舞を見ただけでたむらけんじを連想してしまう病に冒されています。基本的に不治の病だが、時が癒してくれるだろう。たむけんが記憶から消えた時、ブラウン管から消えた時、病は癒える。まあ、正月以外に獅子舞を目撃する事はまず無いが。

 生存中なのはそめのすけなのかそめたろうなのかがいつも曖昧で、かつては工藤兄弟もどっちがどっちだかわからなかった。どこ行ったんだあいつら。そして現在はマナとカナの判別が付かない。付ける気も無い。そういえばマナカナはM-1の敗者復活戦にゲストでも無いのに駆けつけてコメントしていたな。的確な芸人評をしており感心したものだ。

 そのM-1だが、CATVで敗者復活戦の放送があると知り、即録画予約を入れたのだが、その日の夜に本戦があることは知らなかったので、本戦を見ていない。毎年このパターンだ。なぜか30日とか大晦日にやると思い込んでいる。

 この敗者復活戦、中々侮れず、じっくり見てみるとレベルの高さが伝わってくる。確か50から60組くらいは出ていたと思うが、そのうち一割位の漫才は笑った。ただし、微笑み程度を込みで、苦笑いと鼻で笑ったのはカウントしていない。ライセンスは非常に面白く、心底笑った。後で聞けば、敗者復活したそうで。ああいうネタをやるコンビではなかったと思うが、参加者の皆さんはM-1に向けて普段とは違うスタイルを作ってくる傾向が見えた。一割の成功例がライセンスで、残りの九割は失敗だ。

 笑い飯宜しく、ボケ合いを試みたチームが機能していた試しが無い。簡単そうに見えて高度テクだと実感した。あと、相方に「死ねよ」などの暴言を吐くパターン。バランスが取れていないので笑えない。この、「相方に暴言を吐く」のみを追求をしたコンビは、最初は鼻白んだが、徐々に引き込まれた。ボケが的外れな発言を繰り返し、一つ言い終わると暴言を吐くのだが、ツッコミが顔も声もスネ夫にそっくりで「ジャガイモの芽を沢山食って死んじゃえばいいのに」など、気の利いた暴言に好感が持てた。コンビ名は知らない。

 M-1は決勝に上がるまでは単純に面白い奴が勝つシステムなのに、決勝では漫才の構成の上手さを競う会になる点が気に入らない。ん?逆か?敗者復活戦には面白いパンチパーマが数人いたが、今後決勝に残る事は無いだろうなあ。ジパング上陸作戦のオーストラリア人が格段に腕を上げていて驚いた。片言だけが売りの芸人ではなくなっていた。ただ、すべらない話で使ったネタをそのまま流用していたののは閉口した。二つ使ったうち、二つとも入れることは無いだろう。

 このブログで度々民放における笑いに嫌悪感を示してきたが、M-1やオンエアバトルのような番組がもっとあれば進んでテレビを見るのに。もっと言えば、芸人が企画段階から参加している番組が増えればよいのに。面白くないお笑い芸人が売れる時代は終りにして欲しい。面白く無い漫画が売れるのも同様に。面白く無い何かが売れるのは、大衆が洗脳されているということだ。馬鹿ばっかり。
[2007/01/05 04:19] 日記 | TB(0) | CM(1)

書初め。 

 雪合戦に夢中になり、手がかじかんでキーボードが打てなかったので更新できませんでした。もう、両手切断かってくらいかじかんでいたもので。

 本当は書くことが無かっただけだが、それだけでも無い。

 実家に帰っていた。阿呆みたいに兄弟がいるので実家に帰るとそれはもう、えらい人数になる。姉の子や、従兄弟夫婦なんかも来ていて、局地的に人口密度が高まった新春だった。皆、そろいも揃って相も変わらずだ、と感じるところもあれば、年を重ねて変化した部分もある。誰もが速度に差はあれ、前に進んでいるのだな、と思った。歩を進めていないのは俺だけだ。変わりゆくのは心の硬度。凝り固まっている。対外的には何も良くなっていない。年ばかりは勝手にとってゆくので寧ろ状況は後退している。

 久しぶりの家族団欒めいたものを味わって、節に思うのは、一人最高ということ。やはり身軽が一番。一人が辛い時だけ誰かに会うのが最も素晴らしい。友人でも家族でもそれは変わらないと再確認した。これから老いてゆく己が独居老人まっしぐらな道を進んでゆく有り様が目に浮かぶようだ。それはその時考えよう。今まさに老いている両親のことは気になるが、現状であたふたしても何も変わらないので気にしないことにした。

 今年の正月は、カウントダウンすら放棄した日本テレビに感謝したい。習慣に縛られる事に喜びを見出すのは、怠惰であり堕落であり、幸せなことだ。習慣に縛られる事に嫌悪を抱くのは、幼稚であり不満足であり、ペシミズム。このことに言及している点が幼稚で、己の現状を良しとしない点は革新的だが、物事を追求すると、満足を得られる機会はそう無い。妥協点をどの高さに置くかが鍵であり、低すぎると俗物化し、高すぎると俺になる。己のしたくないことはしない我侭か、何にでもけちをつける偏屈か。今年も全く変える気が無いのだが、そろそろ心境に変化が訪れてもいい頃合いかもしれない。周囲を全く気にしていないわけではない。そろそろまずいかもしれない。

 出来れば、年末ジャンボが当たってくれていれば万事解決だったが、9000円の投資に対し、回収は3600円だった。せめて10000円当たれ。

 宝くじが当たったら何に使うか?という夢想は誰もが一度はするだろう。俺は、どうすればその金を用いて一生涯運用し続けるかを考えると夜も眠れない。

 初夢は何を見たか覚えて無いが、最近はエロい夢ばかり見るので多分その辺だろう。今年一年が思いやられる。
[2007/01/04 03:33] 日記 | TB(0) | CM(1)

僕はこの目で嘘をつく。 

 驕る平家は庇からZOO。あ、やっぱりなんでもない。

 昨日適当に作ったスパニッシュ風オムレツが思いのほか良い出来だったことにほくそえみながら、そういえば夢を見ているときに音楽が流れた事が無いかもしれない、何故だ?というようなことを三秒考えて飽きた。最近すぐ飽きる。

 この間は、とことん嘘をつき続けてみよう祭を開催して、電話越しの相手にバレバレの嘘を浴びせかけていたが、二三分言ったら飽きて、その後は本当の事を言い続けた為に、相手は俺のついた嘘を線引きできていないようだった。何処までが嘘で、何処からが本当なのか。恐らく、「次の五輪にカーリングで出る」というところは嘘だと気付いているだろうが、「小学生に哲学を教えるバイトをしている」は信じているかもしれない。そういえば昔、鶴は本当に千年生きると教えたらすんなり信じたような奴だから、全部信じている可能性もある。相手は因みに弟だ。

 職場の休憩室で、ベーグルを食べていたら顎が外れかかって、痛くて痛くて苛々しているところに、隣に座っていた女性二人組みが、「彼氏と二ヶ月連絡を取っていない」だとか「会うのは二週間に一回くらいあればいい」とかをさも武勇伝のように語っていた。相手の女性は、勇者をたたえるが如く合いの手を入れる。およそ阿呆である事をカミングアウトとしか思えない発言を連発してくるのを聞きたくも無いのに聞かされた。仕事中は猫をかぶっているので暴言は控えたが、聞き役の女性は同意していた。女性は嘘をつくのも、嘘を聞くのもうまいと思った。いつ本音を言うのだろう。言わないのかもしれない。男は真顔で嘘をつくが、女は笑顔で嘘をつく。どちらも良くは思わない。

 同様に、休憩室に行くたびに、同じ事を聞かれた。この時期は「寒いですね」以上に時候の挨拶として定着しているのだろうか。

「クリスマスどうすんの?」

 どうもしませんと答えると、「彼女いないの?」と返ってくる。いてもいなくても何もしませんけど、と嘘の無い答えを返すと相手は大体沈黙する。かといって、へりくだった口調でいやー女紹介してくださいよ、見たいな事を言うのは猫をかぶっていようが嫌なので、職場では教会に行く事にしている。意外とすんなり信じられるのが信じられない。いかねえよ。何故、嘘をつかないと会話が成立しないほど、周囲の人間と俺の価値観はずれているのだろう。俺ほど俗っぽくなるのを嫌う必要は無いだろうが、あれほど周囲と一体化したがる必要も無かろうて。

 五歳くらいの子供を見ていると、こんなに可愛いのにもうすぐ薄汚れるのかと、気絶しそうになる。可愛く無い五歳も沢山いるけども。二十歳前後でもあまり汚れずに育ち、世間ずれしてませんよって人と話すと、希望すら湧いてくる。同時に己の汚れが照らされる。まあ、そいつも猫かぶってる可能性を考慮してしまうんだが。そういう純真な人を、清らか、なんて表現すると差別的な感じがする。知能障害と同列になる気がして。清いも汚いも無いけど。人は皆同じだ。男は獣、女は魔性。一皮剥けばみんな同じ。猫かぶっているその猫の部分を好きか嫌いかって事だ。

 なんでこんな風になっちまったのか。俺も皆さんのように境遇を楽しみたいです。嘘です。皆さんも別に楽しくは無いでしょう。ああ人生ってつまらん。いまのところ。
[2006/12/18 00:34] 日記 | TB(0) | CM(1)

餅。 

 焼き鳥やに行くと、必ず餅ベーコンを食いたくなるが、家でそれを作るかといえば全く作る気にならない謎。焼き鳥屋で食べてもそれ程うまいとは思っていないのに毎回頼む。そして、八割方売り切れている。餅ベーコンと俺の悲しい追いかけっこ。高嶺の花なのか。

 最近鍋を良くすると以前書いたが、それは今でも継続中だ。わざわざ土鍋も買った。一人で食べるわけだが、毎回作りすぎてしまう。残り汁で雑炊やらうどんやらを煮込むところまで行かない。そこは俺の計画性の無さがなせる技で、まあある意味故意犯なのだが、先日ついに残り汁を楽しむ機会に恵まれた。

 鍋を啄ばんでいる時に十二分にお米は堪能しているので、残り汁タイムにはうどんを入れようと考えていた。料理に関しての一般知識が足りない子な俺は、インターネットでその辺りのことを検索する。浅学な俺は知らなかったが、鍋の後のお楽しみで餅を入れる文化があるらしい。ほう、それはしらなんだ、とうどんと一緒に餅を購入しようとスーパーをうろうろしていた。辺りを見回しながら、切り餅切り餅、と呟いている俺はさぞ挙動不審者であったろうが、そんな事はお構いなしに俺は餅を求めていた。店内をつぶさに見回り、切り餅を何度か目にする機会はあったものの、どうにも俺が求めるものではなかった。というのも、目にした切り餅は多すぎた。なんといってもキロ単位で売っている。そんなにはいらないよ、とばら売りの餅を求めて、ぼそぼそと呟きながら店内を徘徊する俺は、いっぱしの犯罪予備軍に仲間入り出来ていただろうが、それはそれとして、俺は餅を求めていた。しかし、数十分の索敵の結果、発見できた餅はやはりキロ単位のものしかなかった。持て余すのは目に見えていたが、大した値段でも無いし、あれば食うだろ、と軽い気持ちで購入した。

 足早に帰路に着き、鍋に買ってきた餅をぶち込んで待つことしばし。俺はやっと、残り汁で餅を楽しむ事が出来た。残り汁にうどんと切り餅を三つ入れ、弱火でぐつぐつと煮込む。少し煮込みすぎてどろどろになるぐらいの餅が好きな俺は、待つのももどかしい所を待った。ひたすら待った。やがて、頃合いと見て、器によそい、湯気を吹きつつ餅を食う。うまい。中々どうして合うものなのだな、と残り汁+餅の関係性に舌鼓を打った。

 例によって、己の胃のキャパシティーを穿き違えている俺は、その後数時間、餅の腹持ちのよさの悪い面を存分に味わう事になったが、それはいつもの事。また一つ作れる料理のレパートリーが増えたので、少しは食生活の改善に寄与する事になれば、とほくそえんでいたが、俺はまだ重要なことに気づいていなかった。キロ単位で買った餅をどう消費しようというのか。他に餅を使う料理なんて雑煮位しかねえよ。焼いた餅を食う気にもならないし、ご飯大好きの俺は、米ベースのモノをこれ以上食卓に並べるわけにも行かない。毎日雑煮は嫌だ。

 我が家のテーブルには、消費しきれない切り餅と、これから雑煮専用になるであろう土鍋が幅をきかせている。俺は餅の使い道を求めている。
[2006/12/15 04:43] 日記 | TB(0) | CM(2)

収拾付かず。 

 今日の晩御飯はピザトーストと雑煮でした。コーヒーも付けたし。胃の中がグローバル。

 土鍋が千円で売っていたので買ってみた。鍋をするときに気分が変わるかと思ったが、カセットコンロも買わないと駄目だ。キッチンで煮込む分には何も変わらない。環境を変えて気分を一新しようと試みる事にやや抵抗を感じるものの、変えてみたところで、変えたという事実を何処か否定的に捉えているので、やはり意味は無い。なんでも前向きに捉える事が出来るドリーミングマインドが欲しい。

 例により、更新をサボり続けているわけだが、サボっている理由の一つに本を読むことを再開した事がある。文字ばっかりの本を読むと、ここの更新に出る影響が二つ挙げられる。まず、矢鱈クドイ文章を書きたくなる。何処のどいつが使うんだ、そんな表現。見たいな事を書く。この場合、更新は行われるものの読むに堪えない文章が出来上がる。今ひとつは、プロの文章を読んだ結果、恥ずかしいのか、考えすぎてしまうのか、これは下手な文章はかけないぞ俺、といった心持になる。現状は、一度後者の状態になったものの、流石に書かな過ぎるだろと無理して書いている状態だ。よって、ちょっと背伸びした中学生でももうちょっとマシなもの書くだろ、みたいな文章に仕上がっている。しんじゃおうかな。

 更新が滞った後の記事は必ずこういった言い訳じみた出だしで始まる。サボっていた期間が長ければ長いほど、言い訳も長く、しつこい。なので、出だしではなく、これを本文としてみた。今回はサボった言い訳の話。

 言い訳というのは、釈明とはまた違うものかと思う。多分にネガティブなニュアンスが含まれている。言い訳は、酷い認識を受けている事柄を、いやいやそこまで酷くは無いんだ、というか俺にはこんな理由があったんだよ、と伝える事で、情状酌量を狙う行為であると思う。であるから、実際に起こった事実は変えず、他者の認識に同情・同意を喚起する行為であるはずだ。同時に自分の認識にも落としどころを作る為の行為だ。だからどうということは無いが、所謂譲歩案な訳だから、他人の価値観を否定するときに、そんなの言い訳だ、見たいな事を言うのをやめてくれないか。言われると偉く傷つくものだ。そんな崇高な人間では無い俺は、自己弁護でもしないと精神の安定が得られないんだ。真実を追い求めるのは大切な事だが、人間の成長には個人差があるし、耐性も人それぞれだ。徐々に変えていくしか無い人もいるのだ。これは主に俺が聞くべき話だ。すいませんでした。
[2006/12/15 04:12] 日記 | TB(0) | CM(1)

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